豊岡・但馬の
民話昔ばなし
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平家の侍大将 越中次郎兵衛と絹巻姫
今を去ること820年余の昔、源氏と平家の最後の合戦となった壇ノ浦の戦いは、平家方の惨敗にて終わりました。
戦いに敗れた平家の公達や武士達は源氏の追手を逃れ、日本海の岸づたいに餘部の御崎、竹野町宇日、田久日、奥佐津等に落ち延びたそうです。
平家の侍大将 平盛嗣こと越中次郎兵衛盛嗣は、気比の浜に辿り着き、この地の判官であった宮代将監道弘の家に馬飼の下男として住むこととなりました。
たまたま、宮代家には将監の娘で、絹巻姫とあだ名される美しい娘がおりました。落人に身をやつしているとはいえ、元はこの世の栄華を極めた平家の侍大将です。何をさせても並の腕前ではなく、その男っぷりの良さに、年頃の娘が心を奪われるのも無理はありません。
盛嗣とても、この地で束の間の安息の日々を過ごすうちに、次第にその美しい娘と心安くなり、遂に婿となりました。
そんなある日、残党狩りの追手がついにこの地までおよび、盛嗣の似顔絵と特徴が村の辻々にも貼り出されました。
そこには、盛嗣はみかんが大好物で、好んでよく食べることも記されておりました。
癖とは怖いもので、この地でも時々みかんを食べては皮を川に投げ捨てておりました。村のアイドルを横取りされたとやっかむ若者も少なからずいたのでしょう。みかんの皮が流れてくるのを見て、判官宅の婿がお尋ね者の越中次郎兵衛ではないかと源氏方に注進した者がおりました。
あえなく越中次郎兵衛は捕えられて鎌倉に護送され、遂に打ち首になってしまいました。
将監の娘の絹巻姫はその霊を弔うために、気比の村にそびえる白山山頂(標高185m)にある白山神社の祠の横に慰霊塔を建立しました。
鎌倉時代末に建てられたこの塔は今でも当時の原型をとどめて現存しています。
また、城崎温泉街を見下ろす弁天山には、絹巻姫が建立したとも、盛嗣の馴染みの遊女が建てたとも言われる別の供養塔も現存します。
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気比の浜
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白山神社入口
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絹巻神社
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弁天山供養塔